みつばちは夢をみる〜水谷太美物語〜

女性ならではの感性で花開く、新しいはちみつの世界

三代目・水谷太美の時代に、水谷養蜂園の事業は大きな転換期を迎えます。
戦後復興から高度成長期を経て、人々が豊かさや夢を追い求め始めたとき、水谷太美は女性ならではの鋭い感性で世の中の動きを敏感にキャッチ。
従来のはちみつの概念をくつがえす、斬新で夢のあるアイデアを次々と形にし、テレビや新聞、雑誌などのメディアで一躍話題に。
はちみつの素晴らしさを広く知らしめ、養蜂の新たな可能性を拡げました。

はちみつを瓶詰めにして販売。水谷ブランドの誕生。

当時のトップデザイナー・大久保秋人氏によるパッケージデザイン。「伊勢の生姜糖」をイメージしたラベルやかわいい蜂箱パッケージで業界に新風を起こす。

昭和33年
「ゆかしき花の香り」をコンセプトにした水谷ブランドの広告

昭和32年、三代目・水谷太美は、はちみつを瓶詰めにして売るという新たな試みに挑戦します。当時の一般家庭でははちみつを食品として使用することはほとんどなく、薬代わりにごくわずか消費されている程度でした。太美は当時の国鉄(現・JR)と交渉し、職員や家族が生活用品を購入するために利用する物資部での販売許可を取得。全国の物資部に「水谷ブランド」のはちみつが並ぶことになります。太美は毎日のように店頭に立ち、はちみつのおいしさや栄養価、楽しみ方などを実演販売し、その普及に努めました。こうして水谷養蜂園は小売りという新しい業態を成功させたのです。

日本で初めて、花の種類別にはちみつを売り出す。

昭和38年 業界新聞広告。当時まだ新しかった「レモン入りはちみつ」も販売。

百貨店で自ら販売に立ちPRする太美。
「女王蜂」のニックネームで百貨店のアイドルに。

アメリカ、バーモント州のりんごとはちみつによる長寿法が話題になり、はちみつが一躍大ブームに。

翌昭和33年、水谷ブランドのはちみつは近鉄百貨店でも取り扱われるようになり、その名は一般の消費者にも徐々に知られるようになりました。さらに、太美ははちみつをただ瓶詰めにするだけではなく、花の種類別に売り出すことを発案。転地養蜂の先駆者として長年培ったノウハウから、みつばちには同じ花の蜜を集める習性があることに着目したのです。れんげ、高山植物、みかんなど、花によって味も香りも違うことはもちろん、その夢のあるコンセプトが多くの人々の心を惹きつけました。日本で初めて花別のはちみつを売り出したとして一躍注目を集めることになったのです。

斬新なパッケージや広告、TV出演などで一躍話題に。

女性ならではの感性で開発した「バラ入りはちみつ」が大ヒット。

はちみつの保湿性に着目したリップケア商品「キッスハニー」を発売。

自立容器がフランス衣装で登場。

昭和56年 読売テレビ『2時のワイドショー』に出演し、はちみつの利用法をPR。松阪の電話局がパンク状態になるほど問い合わせが殺到。以後、テレビ出演は30年以上も続く。

水谷太美による斬新なアイデアは商品開発にとどまらず、パッケージや広告などにも発揮されます。一流のグラフィックデザイナーにパッケージを依頼したり、華やかで夢のある広告表現を打ち出したりと、女性ならではの柔軟な発想で次々に時代を先取りした戦略を展開しました。また、昭和50年には水谷養蜂園株式会社を設立し社長に就任。当時まだ女性社長がめずらしかった時代でもあったことから取材が殺到し、読売テレビの『2時のワイドショー』や『日本の女性社長』などに出演しました。またたくまに時の人となった太美は、はちみつの啓蒙に多大な功績を残すことになったのです。

はちみつのアンテナショップ「松治郎の舗」をオープン。

平成2年 創業者の名を冠した「松治郎の舗」オープン。
  「はちみつ最中アイス」が長蛇の列の大ヒット。「はちみつのどあめ」が松阪名物に。

平成2年、水谷太美は長年の夢であった直営店「松治郎の舗」を三重県松阪市にオープン。はちみつのアンテナショップとして、はちみつあめやはちみつ最中アイスなど、数々の新商品が店頭に並びました。なかでも、子どもの頃に母が作ってくれた〝思い出の味〟を再現したはちみつ最中アイスは、長蛇の列ができるほどの爆発的ヒットを記録。また、訪れる人たちにみつばちの魅力を知ってもらおうと、蜂の巣が観察できるディスプレイを考案。地元の人たちが喜ぶ姿に感動し、以後は地域振興のためのさまざまな活動やイベントなど、企業としての社会貢献にも尽力することになりました。